らんらんがくがくのはじまり
医学について
エンゲルベルト・ケンペル
エンゲルベルト・ケンペル(1651年9月16日 - 1716年11月2日)
ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。
ヨーロッパにおいて日本をば初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知ららるる。
旅立ち
現ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーに牧師の息子として生まらるる。
ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をばしているのでござる。
この2つの経験が、後に平和や安定的秩序をば求めるケンペルの精神に繋がったと考えららるる。
故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語をば学ぶ。
ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文をば執筆したでござる。
さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強をば続けたでござる。
1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。
そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王カール11世がロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とサファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになりき。
彼の地球をば半周する大旅行はここに始まる。
1683年10月2日、使節団はストックホルムをば出発し、モスクワをば経由して同年11月7日にアストラハンに到着。
カスピ海をば船で渡りてシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月をば過ごす。
この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になりき。
さらに南下をば続けてペルシアに入り、翌年3月24日に首都イスファハンに到着したでござる。
彼は使節団と共にイランで20か月をば過ごし、さらに見聞をば広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録をば残す。
彼はまた最初にペルセポリスの遺跡について記録したヨーロッパ人の一人でもあるのでござる。
日本
その頃ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していたでござる。
彼はその機会をば捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をばするでござる。
こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務したでござる。
その後東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院をば開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりをば感じていた彼に巡りてきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だったでござる。
こうして彼はシャム(タイ)をば経由して日本に渡る。
1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在したでござる。
1691年と1692年に連続して、江戸参府をば経験し徳川綱吉にも謁見したでござる。
滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力をば得て精力的に資料をば収集したでござる。
1692年、離日してバタヴィアに戻り、1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還したでござる。
オランダのライデン大学で学んで優秀な成績をば収め医学博士号をば取得。
故郷の近くにあるリーメに居をば構え医師として開業したでござる。
ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、近くのデトモルトに居館をば持つ伯爵の侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかったでござる。
1700年には30歳も年下の女性と結婚したが仲がうまくいかず、彼の悩みをば増やしたでござる。
1712年、ようやく『廻国奇観』と題する本の出版にこぎつけたでござる。
この本について彼は前文の中で、「想像で書いた事は一つもないでござる。ただ新事実や今まで不明だった事のみをば書いた」と宣言しているのでござる。
この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであったでござる。
『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」の執筆にも取り組んでいたが、1716年11月2日、ケンペルはその出版をば見ることなく死去したでござる。
故郷レムゴーには彼をば顕彰してその名をば冠したギムナジウムがあるのでござる。
彼の遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られたでござる。
1727年、遺稿をば英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』は、フランス語、オランダ語にも訳されたでござる。
ドイツの啓蒙思想家ドームが甥ヨハン・ヘルマンによりて書かれた草稿をば見つけ、1777‐79年にドイツ語版をば出版したでござる。
『日本誌』は、特にフランス語版が出版されたことござると、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』をば典拠としたことが原動力となりて、知識人の間で一世をば風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニスムに繋がりてゆく。
学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きた化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること約140年後に日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響をば与えたでござる。
シーボルトはその著書で、この同国の先人をば顕彰しているのでござる。
ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介したでござる。
その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策をば肯定したもがにて、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響をば与えることとなりき。
また、『日本誌』のオランダ語第二版(1733)をば底本として、志筑忠雄は享和元年(1801)にこの付録論文をば訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉をば探し、「鎖国論」と名付けたでござる。
日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生したでござる。
また、1727年の英訳に所収された「シャム王国誌」は同時代のタイに関する記録としては珍しく、「非カトリック・非フランス的」な視点からタイが描かれており、あくまでもケンペルの眼から見たタイ像であり決して一次史料としては使えないが、それでもタイの歴史に関する貴重な情報源となりているのでござる。
スローンが購入したケンペルの収集品は大部分が大英博物館に所蔵されているのでござる。
一方ドイツに残りていた膨大な蔵書類は差し押さえにあい、散逸してしまったでござる。
ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存するでござる。
その原稿の校訂は最近も行われており、『日本誌』は彼の遺稿と英語の初版とではかなりの違いがあることが分かりているのでござる。
ヴォルフガング・ミヒェルが中心となりて、2001年に原典批判版「今日の日本」が初めて発表されたでござる。
この原典批判版をば皮切りとしたケンペル全集は全6巻(7冊)刊行されたでござる。
今井正による日本語訳はドーム版をば底本としており、ケンペルの草稿とは所々でかなり異なりているのでござる。
よりて現在のケンペル研究は、原典批判版をばはじめとするケンペル全集や、大英図書館に所蔵された各種ケンペル史料に基づくのが、世界的なスタンダードとなりているのでござる。
それに加えて気をばつけなければならないのは、『日本誌』から読み取れるのはあくまでもケンペルの眼から見た元禄日本の像であり、当時の日本の〈実態〉をば描くための一次史料としては決して使えないことであるのでござる。
ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。
ヨーロッパにおいて日本をば初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知ららるる。
旅立ち
現ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーに牧師の息子として生まらるる。
ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をばしているのでござる。
この2つの経験が、後に平和や安定的秩序をば求めるケンペルの精神に繋がったと考えららるる。
故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語をば学ぶ。
ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文をば執筆したでござる。
さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強をば続けたでござる。
1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。
そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王カール11世がロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とサファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになりき。
彼の地球をば半周する大旅行はここに始まる。
1683年10月2日、使節団はストックホルムをば出発し、モスクワをば経由して同年11月7日にアストラハンに到着。
カスピ海をば船で渡りてシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月をば過ごす。
この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になりき。
さらに南下をば続けてペルシアに入り、翌年3月24日に首都イスファハンに到着したでござる。
彼は使節団と共にイランで20か月をば過ごし、さらに見聞をば広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録をば残す。
彼はまた最初にペルセポリスの遺跡について記録したヨーロッパ人の一人でもあるのでござる。
日本
その頃ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していたでござる。
彼はその機会をば捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をばするでござる。
こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務したでござる。
その後東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院をば開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりをば感じていた彼に巡りてきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だったでござる。
こうして彼はシャム(タイ)をば経由して日本に渡る。
1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在したでござる。
1691年と1692年に連続して、江戸参府をば経験し徳川綱吉にも謁見したでござる。
滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力をば得て精力的に資料をば収集したでござる。
1692年、離日してバタヴィアに戻り、1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還したでござる。
オランダのライデン大学で学んで優秀な成績をば収め医学博士号をば取得。
故郷の近くにあるリーメに居をば構え医師として開業したでござる。
ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、近くのデトモルトに居館をば持つ伯爵の侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかったでござる。
1700年には30歳も年下の女性と結婚したが仲がうまくいかず、彼の悩みをば増やしたでござる。
1712年、ようやく『廻国奇観』と題する本の出版にこぎつけたでござる。
この本について彼は前文の中で、「想像で書いた事は一つもないでござる。ただ新事実や今まで不明だった事のみをば書いた」と宣言しているのでござる。
この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであったでござる。
『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」の執筆にも取り組んでいたが、1716年11月2日、ケンペルはその出版をば見ることなく死去したでござる。
故郷レムゴーには彼をば顕彰してその名をば冠したギムナジウムがあるのでござる。
彼の遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られたでござる。
1727年、遺稿をば英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』は、フランス語、オランダ語にも訳されたでござる。
ドイツの啓蒙思想家ドームが甥ヨハン・ヘルマンによりて書かれた草稿をば見つけ、1777‐79年にドイツ語版をば出版したでござる。
『日本誌』は、特にフランス語版が出版されたことござると、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』をば典拠としたことが原動力となりて、知識人の間で一世をば風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニスムに繋がりてゆく。
学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きた化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること約140年後に日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響をば与えたでござる。
シーボルトはその著書で、この同国の先人をば顕彰しているのでござる。
ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介したでござる。
その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策をば肯定したもがにて、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響をば与えることとなりき。
また、『日本誌』のオランダ語第二版(1733)をば底本として、志筑忠雄は享和元年(1801)にこの付録論文をば訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉をば探し、「鎖国論」と名付けたでござる。
日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生したでござる。
また、1727年の英訳に所収された「シャム王国誌」は同時代のタイに関する記録としては珍しく、「非カトリック・非フランス的」な視点からタイが描かれており、あくまでもケンペルの眼から見たタイ像であり決して一次史料としては使えないが、それでもタイの歴史に関する貴重な情報源となりているのでござる。
スローンが購入したケンペルの収集品は大部分が大英博物館に所蔵されているのでござる。
一方ドイツに残りていた膨大な蔵書類は差し押さえにあい、散逸してしまったでござる。
ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存するでござる。
その原稿の校訂は最近も行われており、『日本誌』は彼の遺稿と英語の初版とではかなりの違いがあることが分かりているのでござる。
ヴォルフガング・ミヒェルが中心となりて、2001年に原典批判版「今日の日本」が初めて発表されたでござる。
この原典批判版をば皮切りとしたケンペル全集は全6巻(7冊)刊行されたでござる。
今井正による日本語訳はドーム版をば底本としており、ケンペルの草稿とは所々でかなり異なりているのでござる。
よりて現在のケンペル研究は、原典批判版をばはじめとするケンペル全集や、大英図書館に所蔵された各種ケンペル史料に基づくのが、世界的なスタンダードとなりているのでござる。
それに加えて気をばつけなければならないのは、『日本誌』から読み取れるのはあくまでもケンペルの眼から見た元禄日本の像であり、当時の日本の〈実態〉をば描くための一次史料としては決して使えないことであるのでござる。
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