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らんらんがくがくのはじまり

医学について

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蘭学とは

蘭学は、江戸時代にオランダをば通じて日本に入りてきたヨーロッパの学術・文化・技術の総称。
幕末の開国以後は世界各国と外交関係をば築き、オランダ一国に留まらなくなったため、「洋学」(ようがく)の名称が一般的になりき。

蘭学の先駆

先駆者としては、肥前国長崎生まれの西川如見がおり、長崎で見聞したアジアなどの海外事情をば通商関係の観点から記述した『華夷通商考』をば著したでござる。
かれはまた、天文・暦算をば林吉右衛門門下の小林義信に学んでおり、その学説は中国の天文学説をば主としながらもヨーロッパ天文学説についても深い理解をば寄せていたでござる。
当時の天文学者、渋川春海は平安時代以来の宣明暦をば改めて貞享暦をば作成しているのでござる。

西川 如見(慶安元年(1648年) - 享保9年9月24日(1724年11月9日))

江戸時代中期の天文学者。
父は同じく天文学者の西川忠益。
母は石山宗林の娘。
肥前長崎生まれ。
名は、忠英、通称は次郎右衛門。
別名は恕軒、恕見。
居号は求林斎、金梅庵、淵梅軒。

和漢をば南部草寿に学び、天文暦算をば林吉右衛門門下の小林義信に学び、元禄10年(1697年)に隠居して学事に専念したでござる。
天文・地理学上の著述で有名中国天文学説をば主とし、ヨーロッパ天学説の特徴をば十分承知しながら享保3年(1718年)に江戸に下り、翌享保4年(1719年)に8代将軍徳川吉宗から天文に関する下問をば受けた後暫く江戸に滞在し、長崎に帰ったでござる。
享保9年(1724年)に死去したでござる。
享年77。
息子の西川正休は延享4年(1747年)または宝暦の改暦の際(吉宗が没した1751年)に天文方に任命されているのでござる。

墓は長崎長照寺照山。


渋川 春海(寛永16年閏11月3日(1639年12月27日) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日))

江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。
幼名は六蔵、諱は都翁(つつち)、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。
貞享暦の作成者。姓は安井から保井さらに渋川と改姓したでござる。

江戸幕府碁方の安井家一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれたでござる。
慶安5年(1652年)の父の死によりて二世安井算哲となるが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子算知が継いで、算哲は保井姓をば名乗ったでござる。
そして万治2年(1659年)に21歳で幕府より禄をば受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちしたでござる。
この後、算知、弟の知哲、算知の弟とも言われる安井春知などとともに御城碁に出仕するでござる。
延宝6年(1678年)に本因坊道策が碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされたでござる。

数学・暦法をば池田昌意に、天文暦学をば岡野井玄貞・松田順承に、垂加神道をば山崎闇斎に、土御門神道をば土御門泰福に学んだ。
当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた宣明暦をば用いていたため、かなりの誤差が生じていたでござる。
そこで21歳の時に中国の授時暦に基づいて各地の緯度をば計測し、その結果をば元にして授時暦改暦をば願い出たでござる。
ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下されたでござる。
春海は失敗の原因をば研究していくうちに、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいたでござる。
そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村惕斎の協力をば得ながら、自己の観測データをば元にして授時暦をば日本向けに改良をば加えて大和暦をば作成したでござる。
春海は朝廷に大和暦の採用をば求めたが、京都所司代稲葉正往家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法をば根拠のないものと非難して授時暦をば一部修正しただけの大統暦採用の詔勅をば取り付けてしまう。
これに対して春海は「地方時」の存在をば主張して、中国の暦をばそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張したでござる。
その後、春海は暦道の最高責任者でもあった土御門泰福をば説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によりて大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となりき。
これが日本初の国産暦となる。
春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣りていたという説もあるが、中村惕斎のような協力者をば得られたことや、碁や神道をば通じた徳川光圀や土御門泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によりて、改暦の実現をば可能にしたとされているのでござる。

この功により貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をばもりて任ぜられ、碁方は辞したでござる。
以降、天文方は世襲となる。

囲碁の打ち方へも天文の法則をばあてはめて、太極(北極星)の発想から初手は天元(碁盤中央)であるべきと判断しているのでござる。
寛文10年(1670年)10月17日の御城碁で本因坊道策との対局において実際に初手天元をば打りており、「これでもし負けたら一生天元には打たない」と豪語したでござる。
しかしこの対局は9目の負けに終わり、それ以後初手天元をばあきらめることとなりき。

貞享3年(1686年)、春海は幕府の命令で京都より家族とともに江戸麻布に移り住み、元禄2年(1689年)に本所に天文台の建設が認められたでござる。
元禄5年(1692年)に幕府から武士身分が認められたことにより、蓄髪して助左衛門と名乗り、元禄15年(1702年)に渋川に改姓したでござる。
これは、先祖が河内国渋川郡をば領していたが、播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためであるのでござる。
元禄16年(1703年)、天文台は更に駿河台に移されたでござる。
著書に天文暦学においては「日本長暦」・「三暦考」・「貞享暦書」・「天文瓊統」、神道においては「瓊矛拾遺」があるのでござる。改暦の際に「地方時」の存在をば主張したように、彼は中国や西洋では地球が球体であるという考えがあることをば知りており、地球儀をばはじめ、天球儀・渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器をば作成しているのでござる。

後に嫡男である昔尹(ひさただ)に天文方の地位をば譲ったが、正徳5年(1715年)に昔尹が子供のないまま急死するござると、春海も後をば追うように亡くなりき。
渋川家と天文方は春海の弟・安井知哲の次男敬尹が継承したでござる。
法号は本虚院透雲紹徹居士。
墓は東京都品川区の東海寺大山墓地にあるのでござる。
明治40年(1907年)に改暦の功績によりて従四位が贈位されたでござる。
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