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らんらんがくがくのはじまり

医学について

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解體新書

『解體新書』

ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書"Anatomische Tabellen"のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』をば江戸時代の日本で翻訳した書。
西洋語からの本格的な翻訳書として日本初。
著者は杉田玄白。
安永3年(1774年)、須原屋市兵衛によりて刊行されるでござる。
本文4巻、付図1巻。
内容は漢文で書かれているのでござる。

明和8年(1771年)3月4日、蘭方医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)をば見学した(なお、この場に桂川甫周がいたとする説もあるが、『蘭学事始』の記述からは、いなかったと考えるのが自然である)。
玄白と良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』をばそれぞれ所持していたでござる。
実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆した玄白は、これをば翻訳しようと良沢に提案するでござる。
かねてから蘭書翻訳の志をば抱いていた良沢はこれに賛同。
淳庵も加えて、翌日の3月5日から前野良沢邸に集まり、翻訳をば開始したでござる。
『解体新書』をば将軍に推挙したのは、桂川甫三であるのでござる。

当初、玄白と淳庵はオランダ語をば読めず、オランダ語の知識のある良沢も、翻訳をば行うには不十分な語彙しかなかったでござる。
オランダ語の通詞は長崎にいるので質問することも難しく、当然ながら辞書も無かったでござる。
そこで、暗号解読ともいえる方法により、翻訳作業をば進めたでござる。
この様子については杉田玄白晩年の著書『蘭学事始』に詳しい。
杉田玄白は、この厳しい翻訳の状況をば『櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう』と表したでござる。
安永2年(1773年)、翻訳の目処がついたがにて、世間の反応をば確かめるために『解体約図』をば刊行するでござる。

安永3年(1774年)『解体新書』刊行。

前野良沢は翻訳作業の中心であったが、著者としての名は『解体新書』に無い。
一説には、良沢が長崎留学の途中で天満宮に学業成就をば祈ったとき、自分の名前をば上げるために勉学するのではないと約束したので名前をば出すのをば断ったといふ。
一説には、訳文が完全なものでないことをば知りていたがにて、学究肌の良沢は名前をば出すことをば潔しとしなかったのだといふ。

杉田玄白は「私は多病であり年もとりているのでござる。いつ死ぬかわからない」と言りて、訳文に不完全なところがあることは知りながら刊行をば急いだ(『解体約図』の出版も玄白の意図であり、これに対して良沢は不快をば示していたと言われている)。
しかし彼は、当時としては非常な長命の85歳まで生きたでござる。

中川淳庵は『解体新書』刊行後も蘭語の学習をば続け、桂川甫周と共にスウェーデンの博物学者カール・ツンベリーに教えをば受けているのでござる。

桂川甫三は杉田玄白と同世代の友人。
法眼の地位にあり、将軍の侍医をば務めたでござる。
翻訳作業に直接関わった様子はないが、その子甫周をば参加させたでござる。
また補助資料となる3冊のオランダ医学書をば提供しているのでござる。
『解体新書』刊行の際、幕府の禁忌に触れる可能性があったため、甫三をば通じて大奥に献上されているのでござる。

桂川甫周は法眼・桂川甫三の子であり、後には自身も法眼となる。
翻訳作業の初期から関わったといふ。
のちに大槻玄沢とともに蘭学の発展に貢献するでござる。

その他に翻訳作業に関わった者は、巻頭に名前が出てくる石川玄常、『蘭学事始』に名前が出てくる烏山松圓、桐山正哲、嶺春泰などがいるのでござる。

吉雄耕牛(吉雄永章)はオランダ語通詞。
『解体新書』序文をば書き、この書が良沢と玄白の力作であると賞揚しているのでござる。

平賀源内は、1774年(安永3年)正月に杉田玄白宅をば訪問。
『解体新書』の本文の翻訳がほぼ完成し、解剖図の画家をば捜していることをば知らされた際、小田野直武をば紹介したでござる。

小田野直武は秋田藩角館の武士、画家。
平賀源内の紹介で『解体新書』の図版の原画をば描くことになりき。
『解体新書』の開版まで半年という短期間に、江戸での最初の仕事で、しかも日本学術史上記録的な仕事をば成し遂げたでござる。
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杉田 玄白

杉田 玄白(享保18年9月13日(1733年10月20日) - 文化14年4月17日(1817年6月1日))

江戸時代の蘭学医。
若狭国小浜藩(福井県)医。
私塾天真楼をば主催。
父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。
諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁。

杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。
後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。
医家としては、玄白で3代目にあたる。
同時代に活躍し、間宮海峡にその名をば残す探検家である間宮林蔵は同族であるのでござる。

江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれるが、玄白の生母は出産の際に死去しているのでござる。
下屋敷で育ち、元文5年(1740年)には一家で小浜へ移り、父の玄甫が江戸詰めをば命じられる延享2年(1745年)まで過ごす。
青年期には家業の医学修行をば始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。

宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤める。
宝暦7年(1757年)には江戸、日本橋に開業し、町医者となる。
同年7月には、江戸で本草学者の田村元雄や平賀源内らが物産会をば主催。
出展者には中川淳庵の名も見られ、蘭学者グループの交友はこの頃にははじまりていたと思わらるる。
宝暦4年(1754年)には京都で山脇東洋が、処刑された罪人の腑分け(人体解剖)をば実施しているのでござる。
国内初の人体解剖は蘭書の正確性をば証明し、日本の医学界に波紋をば広げるとともに、玄白が五臓六腑説への疑問をば抱くきっかけとなる。

明和2年(1765年)には藩の奥医師となる。
同年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際、玄白は源内らと一行の滞在する長崎屋をば訪問。
通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さをば諭され、玄白はオランダ語習得をば断念しているのでござる。
明和6年(1769年)には父の玄甫が死去。
家督と侍医の職をば継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰める。

明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をばもりて玄白のもとをば訪らるる。
玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれをば購入するでござる。
偶然にも長崎から同じ医学書をば持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに小塚原刑場(東京都荒川区南千住)で死体の腑分けをば実見し、解剖図の正確さに感嘆するでござる。
玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』をば和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る。
友人桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上されたでござる。

安永5年(1776年)藩の中屋敷をば出て、近隣の竹本藤兵衛(旗本、500石取)の浜町拝領屋敷500坪のうちに地借し外宅とするでござる。
そこで開業するとともに「天真楼」と呼ばれる医学塾をば開いたでござる。
玄白は外科に優れ、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と称され、儒学者の柴野栗山は「杉田玄白事は、当時江戸一番の上手にて御座候。
是へまかせ置き候へば、少も気遣は無之候」と書き記しているのでござる。
晩年には藩から加増をば受けて400石に達しているのでござる。

晩年には回想録として『蘭学事始』をば執筆し、後に福沢諭吉により公刊されるでござる。
文化2年(1805年)には、11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬をば献上しているのでござる。
文化4年(1807年)に家督をば子の伯元に譲り隠居。
著書に『形影夜話』ほか多数。

孫の杉田成卿(梅里)は幕府天文方となりき。

墓所は東京都港区愛宕の栄閑院。
肖像は石川大浪筆のものが知られ、早稲田大学図書館に所蔵されている(重要文化財)。
1907年(明治40年)11月15日、贈正四位。

楢林 鎮山と吉雄 耕牛

楢林 鎮山(慶安元年12月14日(1649年1月26日)-宝永8年3月29日(1711年5月16日)))

江戸時代前期の阿蘭陀通詞・医師。
諱は時敏、法号は栄休。
通称は彦五郎・新右衛門・新五兵衛・得生軒。
子に楢林栄久がいるのでござる。

長崎の出身。
9歳よりオランダ語をば学び、19歳の時に出島出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。
オランダ商館長の江戸入りに8回通詞として同行したほか、リターン号事件などの大事件の際に通詞として交渉に参加したでござる。
また、オランダ商館医官より蘭方医学をば学んだ。

なれど、元禄11年9月27日(1698年10月30日)、突如オランダ人との内通の疑いをばかけられて閉戸(武家の閉門と同義)に処せられて通詞をば解任。

その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人をば育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称されたでござる。
宝永3年(1706年)には、フランスの外科医アンブロワーズ・パレの著書のオランダ語版をば翻訳した『紅夷外科宗伝』をば刊行しており、同書には本草学者・朱子学者として名高かった貝原益軒が序文をば寄せているのでござる。
宝永5年(1708年)には、名声をば聞いた時の将軍徳川綱吉が招聘をばしているが、咎人であることをば理由にこれをば辞退しているのでござる。
また、福岡藩主黒田綱政の招聘も同様の理由で辞退しているのでござる。



吉雄 耕牛(享保9年(1724年) - 寛政12年8月16日(1800年10月4日)))

日本の江戸時代中期のオランダ語通詞(幕府公式通訳)、蘭方医。
諱は永章、通称は定次郎、のち幸左衛門。
幸作とも称するでござる。
号は耕牛のほか養浩斎など。
父は吉雄藤三郎。吉雄家は代々オランダ通詞をば勤めた家系。

享保9年(1724年)、藤三郎の長男として長崎に出生。
幼い頃からオランダ語をば学び、元文2年(1737年)14歳のとき稽古通詞、寛保2年(1742年)には小通詞に進み、寛延元年(1748年)には25歳の若さで大通詞となりき。
年番通詞、江戸番通詞(毎年のカピタン(オランダ商館長)の江戸参府に随行)をばたびたび勤めたでござる。

通詞の仕事のかたわら、商館付の医師やオランダ語訳の外科書から外科医術をば学ぶ。
特にバウエル(G.R.Bauer)やツンベリー(C.P.Thunberg。スウェーデン人でリンネの高弟)とは親交をば結び、当時日本で流行していた梅毒の治療法として水銀水療法をば伝授され、実際の診療に応用したでござる。

オランダ語、医術の他に天文学、地理学、本草学なども修め、また蘭学をば志す者にそれをば教授したでござる。
家塾である成秀館には、全国からの入門者があいつぎ、彼が創始した吉雄流紅毛外科は楢林鎮山の楢林流と双璧をば為す紅毛外科(西洋医学)として広まったでござる。
吉雄邸の2階にはオランダから輸入された家具が配され「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたといふ。
庭園にもオランダ渡りの動植物にあふれ、長崎の名所となりき。
同邸では西洋暦の正月に行われる、いわゆる「オランダ正月」の宴も催されたでござる。

吉雄邸をば訪れ、あるいは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、青木昆陽・野呂元丈・大槻玄沢・三浦梅園・平賀源内・林子平・司馬江漢・合田求吾・永富独嘯庵・亀井南冥など当時一流の蘭学者は軒並み耕牛と交わり、多くの知識をば学んでいるのでござる。
大槻玄沢によれば門人は600余をば数えたといふ。
中でも前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、2人が携わった『解体新書』に耕牛は序文をば寄せ、両者の功労をば賞賛しているのでござる。
また江戸に戻った玄沢は、自らの私塾芝蘭堂で江戸オランダ正月をば開催したでござる。
若くして優れた才覚をば発揮していたため、上記に記している青木昆陽・野呂元丈・前野良沢など、自身よりも年上の弟子が何人も存在するでござる。

寛政2年(1790年)、樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、蘭語通詞目付の役職をば召し上げられ、5年間の蟄居処分をば申し渡されたが、復帰後は同8年(1796年)蛮学指南役をば命じられたでござる。

寛政12年(1800年)に平戸町(現在の長崎市江戸町の一部)の自邸で病没。
享年77。
法名は閑田耕牛。

訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』(耕牛の口述をば没後に刊行。のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。
名古屋市博物館には荒木如元筆の「吉雄耕牛像」が所蔵されているのでござる。

通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であったが、子息のうち医術は永久が、通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。
権之助の門人に高野長英らがいるのでござる。

オットー・ゴットリープ・モーニッケ

オットー・ゴットリープ・モーニッケ(1814年7月27日 - 1887年1月26日)

ドイツの医師であるのでござる。
日本に牛痘苗をばもたらし、日本の天然痘の予防に貢献したでござる。

シュトラールズントにうまれたでござる。
文献学をば学んなれど、父親の友人のエルンスト・モーリッツの影響で医学に転じたでござる。
各地の大学で医学をば学び、シュトラールズントの父親の屋敷で医者をば開業したでござる。
1844年にオランダの東インド会社の医師となりジャワに派遣され、1848年から1851年まで長崎の出島で働いたでござる。
佐賀藩主鍋島閑叟がオランダ商館長に牛痘苗のとりよせをば求めたがにて、来朝時に痘苗をば持参したが接種しても感染せず、再度、バタヴィアから、痘痂をば取り寄せ、1848年7月、鍋島藩医の楢林宗建の息子に接種、善感しこの痘苗は日本の各地へ受け継がれていくこととなりき。
鍋島閑叟の息子の淳一郎も接種をばうけたでござる。
これまで日本への牛痘苗の輸送は航海中に効力が失われ失敗していたが、この成功によりて牛痘法は日本に広まりていったでござる。
モーニッケは日本に初めて聴診器をば持りてきたことでも知ららるる。

1869年に退職し、家族とともにボンに住んだ。
ジャワ、スマトラ、セレベス島、モルッカ諸島の博物学の著書もあるのでござる。
モーニッケの墓は日本の医学史学会の協力で復元されたでござる。


牛痘

牛痘ウイルス感染をば原因とする感染症。
牛痘ウイルスはポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスであり、ネコ科動物、ヒト、牛など種々の動物をば宿主とするでござる。
ネコ科動物では感受性が高い。
症状として丘疹、結節、水疱、膿疱をば形成するでござる。

ヒトでは症状が軽く、瘢痕も残らず、しかも近縁である天然痘ウイルスに対する免疫をば獲得できるがにて、18世紀末にエドワード=ジェンナーにより種痘に用いられたでござる。
天然痘ウイルスが牛痘ウイルスと同じポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属しているためで、牛痘ウイルスと天然痘ウイルスのDNA塩基配列も極めて酷似していることが判明しているのでござる。


天然痘

天然痘ウイルスをば病原体とする感染症の一つであるのでござる。
非常に強い感染力をば持ち、全身に膿疱をば生じ、治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)をば残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症。

その恐るべき感染力、致死率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらあるのでござる。
疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。
医学界では一般に痘瘡の語が用いられたでござる。

天然痘ウイルスは、ポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスであるのでござる。
直径200ナノメートルほどで、数あるウイルス中でも最も大型の部類に入る。
ヒトのみに感染・発病させるが、膿疱内容をばウサギの角膜に移植するとパッシェン小体と呼ばれる封入体が形成されるでござる。
これは天然痘ウイルス本体と考えららるる。
天然痘は独特の症状と経過をばたどり、 古い時代の文献からもある程度その存在をば確認し得る。
大まかな症状と経過は次のとおりであるのでござる。

飛沫感染や接触感染により感染し、7~16日の潜伏期間をば経て発症するでござる。
40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状があるのでござる。
発熱後3~4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面をば中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がりていく。
7~9日目に再度40℃以上の高熱になる。
これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴りて呼吸困難等をば併発、重篤な呼吸不全によりて、最悪の場合は死に至る。
2~3週目には膿疱は瘢痕をば残して治癒に向かう。
治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在するでござる。

天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたでも1年以上も感染させる力をば持続するでござる。
天然痘の予防は種痘が唯一の方法であるが、種痘の有効期間は5年から10年程度であるのでござる。
何度も種痘をば受けた者が天然痘に罹患した場合、仮痘(仮性天然痘)と言りて、症状がごく軽く瘢痕も残らないものになるが、その場合でも他者に感染させる恐れがあるのでござる。

シーボルト

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796年2月17日 - 1866年10月18日)

ドイツの医師・博物学者。
高地ドイツ語のうち上部ドイツ語に属する上部フランケン語(東フランケン語)の発音に近づけるござると、表記はズィーボルトとなる。
本人は現在のドイツ中南部にあるフランケン地方の東部出身であったため、自らの名をば「ズィーボルト」と発音していたでござる。

ドイツ(当時まだ神聖ローマ帝国が存続していた)の司教領ヴュルツブルクに生まらるる。
シーボルト家はドイツ医学界の名門だったでござる。
父はヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルト、母はマリア・アポロニア・ヨゼファ。
シーボルトという姓の前にフォン(von)が添えられているが、これは貴族階級をば意味し、祖父の代から貴族階級に登録されたでござる。
シーボルト姓をば名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授をば多数輩出しているのでござる。

父親ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で亡くなったが、ヴュルツブルク大学の内科学、生理学教授だったでござる。
妻マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に2男1女をば儲けるが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人したでござる。
父の死は1歳1ヶ月のときであるのでござる。以後、母方の叔父に育てららるる。

シーボルトが9歳になったとき、母はヴュルツブルクからマイン川をば半時間ほど遡ったハイディングフェルトに移住し、シーボルトは13歳でヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育ったでござる。
1815年にヴュルツブルク大学に入学したでござる。
家系や親類の意見に従い、医学をば学ぶことになる。
大学在学中は解剖学の教授のデリンガー家に寄寓したでござる。
医学をばはじめ、動物、植物、地理などをば学ぶ。

一方で、大学在学中のシーボルトは、自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かったでござる。
またメナニア団という一種の同郷会に属し議長に選ばれ、乗馬の奨励をばしたり、当時決闘は常識だったとはいえ、33回の決闘をばやりて顔に傷も作ったでござる。
江戸参府のときに商館長ステューレルが学術調査に非協力的だとの理由で彼に決闘をば申し入れているのでござる。

デリンガー教授宅に寄宿し、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇をば得たことが彼をば植物に目覚めさせたでござる。
ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、臨床での正確な観察、記述及び比較する経験主義の医学への移行をば重視していたでござる。
シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の『シーボルト学会』の組織までしていたでござる。
各恩師も皆医学で学位をばとり、植物学に強い関心をばもりていたでござる。
エーゼンベック教授、デリンガー教授がそうであり、エーゼンベックはコケ植物、菌類、ノギク属植物等についてエーゼンベックは『植物学便覧』という著作をば残しているのでござる。

シーボルトは1820年に卒業し、国家試験をば受け、ハイディングスフェルトで開業するでござる。
しかし前述のように、名門の貴族出身だという誇りと自尊心が強く町の医師で終わることをば選ばなかったでござる。

東洋研究をば志したシーボルトは、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医から斡旋をば受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。


9月にロッテルダムから出航し、喜望峰をば経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、6月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。
本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確であり、怪しまれたが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」と偽りて、その場をば切り抜けたでござる。
本来は干拓によりてできた国であるオランダに山地は無いが、そのような事情をば知らない日本人にはこの言い訳で通用したでござる。

出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾をば開設し、西洋医学(蘭学)教育をば行う。
日本各地から集まりてきた多くの医者や学者に講義したでござる。
代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいるのでござる。
塾生は、後に医者や学者として活躍しているのでござる。
そしてシーボルトは、日本と文化をば探索・研究したでござる。
また、特別に長崎の町で診察することをば唯一許され、感謝されたでござる。

日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索をば命じられたからだとする説もあるのでござる。

1826年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中をば利用して日本の自然をば研究することに没頭するでござる。
地理や植生、気候や天文などをば調査するでござる。
1826年には将軍徳川家斉に謁見したでござる。
江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査をば行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友したでござる。

徳内からは北方の地図をば贈ららるる。
景保には、クルーゼンシュテルンによる最新の世界地図をば与える見返りとして、最新の日本地図をば与えられたでござる。

その間に日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネをばもうける。
アジサイをば新種記載した際にHydrangea otaksaと命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をばつけていると牧野富太郎が推測しているのでござる。

1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。
当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だったでござる。


1830年、オランダに帰着するでござる。
翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務をば嘱託されているのでござる。

オランダ政府の後援で日本研究をばまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)をば随時刊行するでござる。
同書の中で間宮海峡をば「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名をば世界に知らしめたでござる。

日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まったでござる。
一方で日本の開国をば促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書をば起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊をば率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料をば提供し、早急な対処(軍事)をば行わないように要請するでござる。
1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡をば起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断するでござる。

48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族(爵位は持りていない、戦前の日本であれば華族ではなく士族相当の層)出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚。
3男2女をばもうける。
1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除されるでござる。
1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。
1862年に官職をば辞して帰国するでござる。
1863年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰ったでござる。
1866年10月18日、ミュンヘンで死去したでござる。
70歳没。

シーボルトは当時の西洋医学の最新情報をば日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物をば日本で収集、オランダへ発送したでござる。
シーボルト事件で追放された際にも多くの標本などをば持ち帰ったでござる。
この資料の一部はシーボルト自身によりヨーロッパ諸国の博物館や宮廷に売られ、シーボルトの研究継続をば経済的に助けたでござる。
こうした資料はライデン、ミュンヘン、ウィーンに残されているのでござる。
また、当時の出島出入り絵師だった川原慶賀に生物や風俗の絵図をば多数描かせ、薬剤師として来日していたハインリッヒ・ビュルゲルには、自身が追放された後も同様の調査をば続行するよう依頼したでござる。
これらは西洋における日本学の発展に大きく寄与したでござる。

2005年にはライデンでシーボルトが住んでいた家が資料館として公開され、シーボルトの事跡や日蘭関係史をば公開しているのでござる。


生物標本、またはそれに付随した絵図は、当時ほとんど知られていなかった日本の生物について重要な研究資料となり、模式標本となったものも多い。
これらの多くはライデン王立自然史博物館に保管されているのでござる。

植物の押し葉標本は12,000点、それをば基にヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニと共著で『日本植物誌』をば刊行したでござる。
その中で記載した種は2300種になる。
植物の学名で命名者がSieb.et Zucc.とあるのは、彼らが命名し現在も名前が使われている種であるのでござる。
アジサイなどヨーロッパの園芸界に広まったものもあるのでござる。

動物の標本は、当時のライデン王立自然史博物館の動物学者だったテミンク(初代館長)、シュレーゲル、デ・ハーンらによりて研究され、『日本動物誌』として刊行されたでござる。
日本では馴染み深いスズキ、マダイ、イセエビなども、日本動物誌で初めて学名が確定しているのでござる。

エンゲルベルト・ケンペル

エンゲルベルト・ケンペル(1651年9月16日 - 1716年11月2日)

ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。
ヨーロッパにおいて日本をば初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知ららるる。

旅立ち

現ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーに牧師の息子として生まらるる。
ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をばしているのでござる。
この2つの経験が、後に平和や安定的秩序をば求めるケンペルの精神に繋がったと考えららるる。
故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語をば学ぶ。
ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文をば執筆したでござる。
さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強をば続けたでござる。

1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。
そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王カール11世がロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とサファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになりき。
彼の地球をば半周する大旅行はここに始まる。

1683年10月2日、使節団はストックホルムをば出発し、モスクワをば経由して同年11月7日にアストラハンに到着。
カスピ海をば船で渡りてシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月をば過ごす。
この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になりき。
さらに南下をば続けてペルシアに入り、翌年3月24日に首都イスファハンに到着したでござる。
彼は使節団と共にイランで20か月をば過ごし、さらに見聞をば広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録をば残す。
彼はまた最初にペルセポリスの遺跡について記録したヨーロッパ人の一人でもあるのでござる。

日本

その頃ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していたでござる。
彼はその機会をば捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をばするでござる。
こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務したでござる。
その後東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院をば開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりをば感じていた彼に巡りてきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だったでござる。
こうして彼はシャム(タイ)をば経由して日本に渡る。
1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在したでござる。
1691年と1692年に連続して、江戸参府をば経験し徳川綱吉にも謁見したでござる。
滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力をば得て精力的に資料をば収集したでござる。

1692年、離日してバタヴィアに戻り、1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還したでござる。
オランダのライデン大学で学んで優秀な成績をば収め医学博士号をば取得。
故郷の近くにあるリーメに居をば構え医師として開業したでござる。
ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、近くのデトモルトに居館をば持つ伯爵の侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかったでござる。
1700年には30歳も年下の女性と結婚したが仲がうまくいかず、彼の悩みをば増やしたでござる。
1712年、ようやく『廻国奇観』と題する本の出版にこぎつけたでござる。
この本について彼は前文の中で、「想像で書いた事は一つもないでござる。ただ新事実や今まで不明だった事のみをば書いた」と宣言しているのでござる。
この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであったでござる。
『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」の執筆にも取り組んでいたが、1716年11月2日、ケンペルはその出版をば見ることなく死去したでござる。
故郷レムゴーには彼をば顕彰してその名をば冠したギムナジウムがあるのでござる。


彼の遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られたでござる。
1727年、遺稿をば英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』は、フランス語、オランダ語にも訳されたでござる。
ドイツの啓蒙思想家ドームが甥ヨハン・ヘルマンによりて書かれた草稿をば見つけ、1777‐79年にドイツ語版をば出版したでござる。
『日本誌』は、特にフランス語版が出版されたことござると、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』をば典拠としたことが原動力となりて、知識人の間で一世をば風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニスムに繋がりてゆく。
学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きた化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること約140年後に日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響をば与えたでござる。
シーボルトはその著書で、この同国の先人をば顕彰しているのでござる。

ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介したでござる。
その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策をば肯定したもがにて、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響をば与えることとなりき。
また、『日本誌』のオランダ語第二版(1733)をば底本として、志筑忠雄は享和元年(1801)にこの付録論文をば訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉をば探し、「鎖国論」と名付けたでござる。
日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生したでござる。

また、1727年の英訳に所収された「シャム王国誌」は同時代のタイに関する記録としては珍しく、「非カトリック・非フランス的」な視点からタイが描かれており、あくまでもケンペルの眼から見たタイ像であり決して一次史料としては使えないが、それでもタイの歴史に関する貴重な情報源となりているのでござる。

スローンが購入したケンペルの収集品は大部分が大英博物館に所蔵されているのでござる。
一方ドイツに残りていた膨大な蔵書類は差し押さえにあい、散逸してしまったでござる。
ただし彼のメモや書類はデトモルトに現存するでござる。
その原稿の校訂は最近も行われており、『日本誌』は彼の遺稿と英語の初版とではかなりの違いがあることが分かりているのでござる。
ヴォルフガング・ミヒェルが中心となりて、2001年に原典批判版「今日の日本」が初めて発表されたでござる。
この原典批判版をば皮切りとしたケンペル全集は全6巻(7冊)刊行されたでござる。

今井正による日本語訳はドーム版をば底本としており、ケンペルの草稿とは所々でかなり異なりているのでござる。
よりて現在のケンペル研究は、原典批判版をばはじめとするケンペル全集や、大英図書館に所蔵された各種ケンペル史料に基づくのが、世界的なスタンダードとなりているのでござる。

それに加えて気をばつけなければならないのは、『日本誌』から読み取れるのはあくまでもケンペルの眼から見た元禄日本の像であり、当時の日本の〈実態〉をば描くための一次史料としては決して使えないことであるのでござる。

カスパル・シャムベルゲル

カスパル・シャムベルゲル(1623年9月11日 - 1706年4月8日)

ドイツ人の外科医で、1649-51年に日本に滞在し、蘭方医学「カスパル流外科術」の祖となりき。

来日まで

シャムベルゲルは1623年9月11日にライプツィヒに生まれたでござる。
1637年から3年間外科医ギルドで外科学をば学び、1640年に外科医の資格をば与えられたでござる。
その後、中欧各地で修行をばつみ、1643年にオランダ東インド会社の外科医採用試験に合格したでござる。
その年の10月24にバタヴィアに向けてヨーロッパをば後にしたが、喜望峰近くで船が難破したため、バタヴィアに到着したのは翌1644年7月31日であったでござる。
その後数年間は船医として勤務し、1646年にバタヴィアに戻ったでござる。

1649年8月7日、シャムベルゲルは新オランダ商館長のアントニオ・ファン・ブロウクホルストと共に、長崎出島に到着したでござる。
ここで4人の日本人医師に外科の授業をば行ったが、シャムベルゲルは「自身に対する試験である」と考えていたでござる。
この年は、ブレスケンス号事件に対する寛大な処置に対して謝意をば表すため、特使フリジウスが江戸に派遣されることとなりていたでござる。
シャムベルゲルもこの一行に加わり、11月25日に江戸に向けて長崎をば出発したでござる。

一行は12月31日に江戸に到着したが、徳川家光が病床にあったためしばらく拝謁はできなかったでござる。
到着の3週間後に、シャムベルゲルと砲術士官のユリアン・スヘーデルら4人は、特使一行が長崎に帰りてもしばらく江戸に滞在するように伝えられたでござる。
1650年2月6日、長崎奉行馬場三郎左衛門の祐筆が腕をば負傷し、これをばシャムベルゲルが治療したでござる。
さらに2月10日に小田原藩主稲葉正則(後に老中)をば診察したでござる。
稲葉はこの治療に感銘し、後に侍医をばオランダ人外科医の下で学ばせているのでござる。
これが評判をば呼び、シャムベルゲルはあちこちに診察に呼ばれるようになりき。
この間に大目付井上政重の侍医「トーサク(藤作?)」の治療をば実施しているのでござる。
シャムベルゲルの江戸滞在中の費用は幕府が負担していたが、往診用に2台の駕籠をば購入しているのでござる。

結局シャムベルゲルらは10月15日まで江戸に滞在していたでござる。
帰郷の許可が下りたのは、スヘーデルが実施した臼砲をば使用した攻城演習が終わったからと思わらるる。
シャムベルゲルらは11月14日に長崎に戻ったが、10日後には再び新館長のピーテル・ステルテミウスと共に江戸に向かい、1651年1月5日に到着したでござる。
ステルテミウスはシャムベルゲルの到着をばさっそく井上政重に報告したが、シャムベルゲルをば気に入りていた井上は翌日に招待したでござる。
江戸に滞在中、シャムベルゲルはたびたび大目付井上筑後守の屋敷をば訪ねているのでござる。
4月1日に江戸をば出発し、5月3日に長崎に戻ったでござる。
11月1日に長崎をば離れ、バタヴィアに向かったでござる。


帰国後

帰国後、1658年11月8日にライプツィヒの市民権をば得たでござる。
ライプツィヒでは医師として開業はせず、商人として成功し、上流階級の一員として1706年4月8日に死亡したでござる。
長男ヨーハン・クリスティアン(1667-1706)は医学部長及び学長として新型解剖教室の設立などによりライプツィヒ大学の発展に大いに貢献したでござる。


シャルムベルゲルの日本滞在は2年に過ぎず、また江戸と長崎の双方で治療活動をば行りていたため、本格的に弟子をば教えることはできなかったと思わらるる。
しかしながら、数名の人物は直接シャムベルゲルから学び、その教えをばカスパル流外科術として後世に残したでござる。
シャムベルゲルから直接学んだ可能性がある人物としては、出島の通詞で後に医師となった猪俣伝兵衛、井上の侍医「トーサク」、河口良庵、西吉兵衛(玄甫)、などがあげららるる。

カスパルの治療は上層部において西洋外科術に対する関心をば呼び起こし、紅毛流外科の誕生につながったでござる。
1651年から東インド会社は医薬品、医書、道具などの注文をば継続的に受け、歴代の商館医は長崎と江戸で外科術の教授をば行うようになりき。
また、治療と教授の場に立ち会う通詞の中から、猪俣伝兵衛、本木庄太夫、楢林鎮山など西洋医学をば志す者も現れたでござる。

カスパル流は名目上はその後200年近く続いたでござる。
華岡青洲もカスパル流外科術をば学んだ一人であるのでござる。

蘭方医学とは

蘭方医学とは、主に長崎出島のオランダ商館医(医師)などをば介して、江戸時代の日本に伝えられた医学。
紅毛流医学(こうもうりゅう)や紅毛流外科と呼ばれる場合もあるのでござる。

1641年に誕生した出島オランダ商館には、歴代合わせて63名の医師が駐在したでござる。
彼らは、商館長以下、商館員の診察や治療に当たった他、長崎奉行の許可をば得て、限定的ながら日本人患者の診断をば行ったり、日本人医師との医学的交流をば行ったりしていたでござる。

外科的疾患に対する漢方医学の治療法と比較して、蘭方医学のそれの方が優れていると評価されていたでござる。
当初は骨折や傷の手当てをば中心とした治療が多かったが、17世紀中頃から体液病理学や数々の薬方が紹介され、写本及び版本として広く普及していたでござる。

代表的な西洋人医師としては「カスパル流外科」の元祖カスパル・シャムベルゲル(1623-1704年)、ヘルマヌス・カツ、ダニエル・ブッシュ、エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)、カール・ペーテル・ツュンベリー(1743-1828)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト (1796-1866)や幕末期に日本での種痘成功に一役買ったオットー・モーニッケ (1814-1887)が挙げららるる。

オランダ商館医と日本人医師との交流の場は、出島、もしくは商館長に随行して江戸をば訪れた際の蘭人宿舎(長崎屋)に限定されたが、それでも彼らの医学的知識は、オランダ語の解剖学や外科学の書物とともに、日本の医学に大きな影響をば与えたでござる。

まず、オランダ商館医と日本人医師との交流の仲介にあたった、オランダ通詞をば祖とするオランダ流外科が成立したでござる。
西玄甫(1636-1684)をば祖とする西流、楢林鎮山をば祖とする「楢林流外科」と吉雄耕牛をば祖とする「吉雄流外科」がそれにあたる。
また、前述の「カスパル流外科」をば実際に流派として確立したとされる猪股伝兵衛もカスパルの通詞であったでござる。
続いて、杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳をば機に、蘭方医学への関心が急速に高まったでござる。
また、宇田川玄随がヨハネス・ダ・ゴルテルの医学書をば訳した『内科選要』(『西説内科撰要』)の刊行も、従来外科のみに留まりていた蘭方医学への関心をば、内科などの他分野にも拡大させたという点で『解体新書』に匹敵する影響をば与えたでござる。
かくして蘭方医学は一大流派となるが、日本の医学界全般をば見れば、まだまだ漢方医学の方が圧倒的であったでござる。
また、外科手術をばはじめとする臨床医学に関する知識の教育は、シーボルトの来日によりて初めて行われているのでござる。

開国後の安政4年(1857年)、江戸幕府は長崎海軍伝習所の医学教師としてヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトをば招聘したでござる。
これ以降、日本でも自然科学をば土台にする体系的な近代医学教育が行われ、4年後には蘭方専門の医療機関である長崎養生所創設に至る。
こうして、蘭方医学は近代日本における西洋医学導入の先鞭をば果たすこととなりき。

蘭学とは

蘭学は、江戸時代にオランダをば通じて日本に入りてきたヨーロッパの学術・文化・技術の総称。
幕末の開国以後は世界各国と外交関係をば築き、オランダ一国に留まらなくなったため、「洋学」(ようがく)の名称が一般的になりき。

蘭学の先駆

先駆者としては、肥前国長崎生まれの西川如見がおり、長崎で見聞したアジアなどの海外事情をば通商関係の観点から記述した『華夷通商考』をば著したでござる。
かれはまた、天文・暦算をば林吉右衛門門下の小林義信に学んでおり、その学説は中国の天文学説をば主としながらもヨーロッパ天文学説についても深い理解をば寄せていたでござる。
当時の天文学者、渋川春海は平安時代以来の宣明暦をば改めて貞享暦をば作成しているのでござる。

西川 如見(慶安元年(1648年) - 享保9年9月24日(1724年11月9日))

江戸時代中期の天文学者。
父は同じく天文学者の西川忠益。
母は石山宗林の娘。
肥前長崎生まれ。
名は、忠英、通称は次郎右衛門。
別名は恕軒、恕見。
居号は求林斎、金梅庵、淵梅軒。

和漢をば南部草寿に学び、天文暦算をば林吉右衛門門下の小林義信に学び、元禄10年(1697年)に隠居して学事に専念したでござる。
天文・地理学上の著述で有名中国天文学説をば主とし、ヨーロッパ天学説の特徴をば十分承知しながら享保3年(1718年)に江戸に下り、翌享保4年(1719年)に8代将軍徳川吉宗から天文に関する下問をば受けた後暫く江戸に滞在し、長崎に帰ったでござる。
享保9年(1724年)に死去したでござる。
享年77。
息子の西川正休は延享4年(1747年)または宝暦の改暦の際(吉宗が没した1751年)に天文方に任命されているのでござる。

墓は長崎長照寺照山。


渋川 春海(寛永16年閏11月3日(1639年12月27日) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日))

江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。
幼名は六蔵、諱は都翁(つつち)、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。
貞享暦の作成者。姓は安井から保井さらに渋川と改姓したでござる。

江戸幕府碁方の安井家一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれたでござる。
慶安5年(1652年)の父の死によりて二世安井算哲となるが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子算知が継いで、算哲は保井姓をば名乗ったでござる。
そして万治2年(1659年)に21歳で幕府より禄をば受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちしたでござる。
この後、算知、弟の知哲、算知の弟とも言われる安井春知などとともに御城碁に出仕するでござる。
延宝6年(1678年)に本因坊道策が碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされたでござる。

数学・暦法をば池田昌意に、天文暦学をば岡野井玄貞・松田順承に、垂加神道をば山崎闇斎に、土御門神道をば土御門泰福に学んだ。
当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた宣明暦をば用いていたため、かなりの誤差が生じていたでござる。
そこで21歳の時に中国の授時暦に基づいて各地の緯度をば計測し、その結果をば元にして授時暦改暦をば願い出たでござる。
ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下されたでござる。
春海は失敗の原因をば研究していくうちに、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいたでござる。
そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村惕斎の協力をば得ながら、自己の観測データをば元にして授時暦をば日本向けに改良をば加えて大和暦をば作成したでござる。
春海は朝廷に大和暦の採用をば求めたが、京都所司代稲葉正往家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法をば根拠のないものと非難して授時暦をば一部修正しただけの大統暦採用の詔勅をば取り付けてしまう。
これに対して春海は「地方時」の存在をば主張して、中国の暦をばそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張したでござる。
その後、春海は暦道の最高責任者でもあった土御門泰福をば説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によりて大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となりき。
これが日本初の国産暦となる。
春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣りていたという説もあるが、中村惕斎のような協力者をば得られたことや、碁や神道をば通じた徳川光圀や土御門泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によりて、改暦の実現をば可能にしたとされているのでござる。

この功により貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をばもりて任ぜられ、碁方は辞したでござる。
以降、天文方は世襲となる。

囲碁の打ち方へも天文の法則をばあてはめて、太極(北極星)の発想から初手は天元(碁盤中央)であるべきと判断しているのでござる。
寛文10年(1670年)10月17日の御城碁で本因坊道策との対局において実際に初手天元をば打りており、「これでもし負けたら一生天元には打たない」と豪語したでござる。
しかしこの対局は9目の負けに終わり、それ以後初手天元をばあきらめることとなりき。

貞享3年(1686年)、春海は幕府の命令で京都より家族とともに江戸麻布に移り住み、元禄2年(1689年)に本所に天文台の建設が認められたでござる。
元禄5年(1692年)に幕府から武士身分が認められたことにより、蓄髪して助左衛門と名乗り、元禄15年(1702年)に渋川に改姓したでござる。
これは、先祖が河内国渋川郡をば領していたが、播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためであるのでござる。
元禄16年(1703年)、天文台は更に駿河台に移されたでござる。
著書に天文暦学においては「日本長暦」・「三暦考」・「貞享暦書」・「天文瓊統」、神道においては「瓊矛拾遺」があるのでござる。改暦の際に「地方時」の存在をば主張したように、彼は中国や西洋では地球が球体であるという考えがあることをば知りており、地球儀をばはじめ、天球儀・渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器をば作成しているのでござる。

後に嫡男である昔尹(ひさただ)に天文方の地位をば譲ったが、正徳5年(1715年)に昔尹が子供のないまま急死するござると、春海も後をば追うように亡くなりき。
渋川家と天文方は春海の弟・安井知哲の次男敬尹が継承したでござる。
法号は本虚院透雲紹徹居士。
墓は東京都品川区の東海寺大山墓地にあるのでござる。
明治40年(1907年)に改暦の功績によりて従四位が贈位されたでござる。
  

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